4.第58回全日本アマチュア自転車競技選手権大会
1989年世界選プレ大会
トラック競技(初開催!プロ・アマ合同)
世界選手権大会日本大会を翌年に控えた全日本自転車競技選手大会は、そのリハーサルの意味も含めてプロアマ合同で初めて開催された。プロは第36回全日本プロ自転車競技大会の開催であった。会場となったのは昨年披露された後楽園ドームの特設トラックである。
5月12日午後より14日にかけて、両連盟から推薦された全国各地より集まった国内トップクラスの選手と外国招待選手を加え活気のあるレースを展開し観客を魅了した。特に14日の最終日は日曜日で、昨年の「聖子ブーム」の時の入場者には及ばなかったが一万5千余人の観衆の動員があり賑わった。
競輪の売上も上昇の一途をたどっている時代で、1980年からプロの世界選手権で採用された「ケイリン競走」種目はトップ競輪選手が全員エントリーしているとマスコミで報道されていた。
多くの入場者があった大きな要因は、この前宣伝の効果でケイリンフアンが車券を抜きにしたレースの観戦への興味を沸き立たせたものであると思われる。室内競技場であり都心という絶好の場所であったという状況を差し引いてもプロスプリント10連覇の偉業達成後であり、競輪がスポーツ自転車のイメージとして与えた影響も多分にあったものと思われる。
競技開始前、練習中の選手をバックに(筆者)
審判席(フイールド内)の記録担当役員
左:中村賢二(現東京車連理事長)隣:大脇恒夫(JCF部長)が競技役員として執務していた。
バンクの特性上の関係もあり、記録種目の「タイム」面では低調で見るべきものがなかったが、唯一、プロの個人追抜競走(当時5km)で埼玉県の飯島規之選手が日本新記録を出したに止まった。
行われた競技種目は以下の通りであった。ケーリン競走(プロ)のレース経過のみ記載する。
*ケイリン(プロ)のレース経過 圧巻!混戦を鈴木誠が抜け出す
先行力No.1の滝沢政光が南関東勢を引き連れ早めに誘導員を交わして逃げる展開で最終回を迎えていた。西日本の先行選
手松本選手を足場に続いていた九州勢の2名と地区的に近い広島の佐古選手が並ぶラインは一瞬立ち遅れた。
しかし、まくりかけては国内右に出る選手がいない力を備えている中野選手はバックに入ると松本選手の行けないのを見
て踏み出した。
4コーナーを曲がりきるまでの走りは圧巻で完全にまくり切ったかに見えたが、滝沢選手の番手を回る鈴木選手のブロッ
クに合い失速。後ろに付いていた井上選手が内側に切り込んで抜け出したかに見えたが惜しくも届かず鈴木誠選手が直線
一気の追い込みでの優勝となった。
ロード競技(外国招待選手が優勝)
58回という長い歴史のある国内最大のロードレース選手権大会で海外選手の優勝者を出したのは初めてである。歴史に残
る大会として後世に記録としてとどめおかれるであろう。
トラック種目では、戦後、数回海外選手を招待して、競技力向上のため開催した時、何種目か優勝されている記録はある
。特に4km個人追抜競走は最も海外との差がある種目ですべて優勝されている。
この年のロードは、平成元年6月11 日(日)、全国で11番目に政令都市に移行し、名実ともに東北地域の中核都市になった
仙台市郊外泉地区で開催された。
プロロード選手権はすでに世界選手権代表選手選考会を兼ねて5月17日に終了している。
またこの年はその1ヶ月前の4月19日には同じ会場となった群馬CSCで、1990年世界選手権手権大会の日本開催に備え、
プロ・アマオープンのレースを210km距離で行いプロ41名、アマ12名が参加していた。世界選に向けての選手強化の一環
として画期的な事業として、当サーキット最高距離のレース記録として残る大会となっている。
「泉」地区ビレッジ内メイン道路
アマチュア登録で出走選手の上位者を成績
順位 | 選手名 | 所属 | タイム |
1 | 高橋松吉 | ボスコ | 5“5341 |
2 | 森 幸春 | 日直商会 | -0.8秒 |
3 | 飯田義広 | 東京※プロ | -7分10秒 |
4 | 中込辰吾 | ミヤタ | |
5 | 橋川 健 | 日東紅茶 | |
6 | 鈴木光広 | ブリヂストン | |
7 | 苗村 徹 | マエダ | |
8 | 川崎正志 | ナショナル | |
9 | 鉄沢孝一 | 新家工業 | |
10 | 村岡 勉 | マエダ | |
11 | 藤野智一 | なるしま・F | |
12 | 秋山芳久 | ノックス |
仙台市駅前からバスで泉ビレッジまでは約40分程かかる。東北高速道路の利用では「泉」インターを降りて10分足らずである。(東北自動車道の川口~青森間の前線が開通したのは1987年9月)
この地での開催はアマチュア選手権大会としては始めてであるが、仙台市では国内主要ロードの開催は歴史がある。戦後、1952年(昭和27年)~1971年(昭和46年)までの20年間、東北六県にまたがる公道約1000km(途中から1300km)を走るステージレースとして交通事情の悪化で中止されるまで続けられた「三笠宮杯・東北一周道路競走大会」のスタート/ゴール地点として親しまれていた。その後しばらく中断されていたが、東北六県内の選定された各県のコースを「点」
(町から街へ走るレースがステージレース)で移動して復活した「東北ステージレース」が1986年(昭和61年)より開催されている。全国規模までいっていない地域内高校チーム主体で1部クラブチーム、実業団チームの参戦はあるが、自転車競技王国で全国的に名の知られているこの地でのステージレース復活は地元の有力紙、河北新報社が「夢よふたたび」の協力で次の展開に期待がもたれていた。このような背景から宮城アマチュア自転車競技連盟が今回の全日本アマチュア自転車選手権ロードレース大会の主管を引き受け実現したものである。
■レース展開
午前8時、泉ビレッジ中心地点である「カリヨン広場」前を男子135名(オーストラリア選手4名含む)が早朝にもかかわらずビレッジに住んでいる大勢の観衆の見守る中スタートした。1分遅れで女子がスタート。
梅雨入り前であったためか、からりと晴れ上がった絶好のコンデションである。1周回14kmのコースを男子12周回(168km)、女子4周回(56km)の距離でのレースである。高低差はフイニッシュ地点500m手前の1ヶ所が登りであったためと、周回中間の広い農道の長い直線見通しの効くコースで集団は大きく崩れず進められた。
男子のレースは、2周回目で集団を果敢に飛び出したエースを含む9名の各チームの選手が主導権を取り最後の2周回に入るまで続けられた。集団がいつ先行を捉えるかの展開であった。集団が先行グループを吸収した後、最後の1周回で抜け出した10名の選手のゴールスプリントで勝敗が決まった。
見ごたえのあったゴール前のデッドヒートは広い道路でなければ見られないロードレース独特のものである。陸上競技の100m走以上の決勝点通過の興奮を味わえる競走競技の醍醐味である。
ゴール先着したのは海外招待選手のうち最年長といっても21才の前年のオーストラリア選手権で10位入賞したK・ジェミー選手である。10名の抜け出した選手に入っていた同僚で昨年の国内ジュニアのロード選手権2位の4位・L・ウオルター選手のアシスト(坂を登りきっての直線500mで先行し引っ張った)により、日本の当時のロードスプリンターとしては1,2を争う実力者である3位・鈴木光(ブリヂストン)2位・大野直志(日本鋪道)の追い込みを押さえての勝利であった。
勝負処となった最後の坂で 10位・鉄沢孝一(新家工業)がアタック、これに6位・三船雅彦(スギノ) 7位・森幸春(日直) 9位・大石一夫(ボスコ) 8位・佐々木晃雄(徳島県庁)がからみ反応した。しかし
後続を引き離せずに勝負は直線に持ち越され、最後は横一線のゴ―ルとなり、オーストリアの若い2名のパワーに屈した。5位でフイニッシュした安原昌弘(モリ工業)までトップとのタイムさ0.5
秒差のデッドヒートは見ごたえのあるレースであった。
*男子・上位結果
1位 KELLY Jamie(オーストラリア) 4”11:15.28
2位 大野直志(日本鋪道) 4”11:15.81
3位 鈴木光広(ブリヂストン) 4”11:15. 84
4位 LANCASTER Walter(オーストラリア)
5位 安原昌弘(モリ工業
6位 三船雅彦(スギノテクノ)
*女子・上位結果
1位 阿部和香子(マエダ) 1”35:36.74
2位 小倉輝美(バドサイクル) 1”35:37.05
3位 堀 弘乃(清水市役所) 1”35:37.32
4位 三田村由香里(ミヤタ)
5位 鈴木裕美子(パルコ)
6位 外岡友里(小樽市中学生)
著者:南 昌宏
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