1:第53回全日本アマチュア自転車競技選手権大会(1984年)
<ロスアンジェルス五輪選考会>
前回のオリンピックが西側諸国の不参加で開催されたが、今回はソビエト連邦を頂点とする東側諸国のボイコットが年初より報道され冷戦は解消されておらず国際情勢は不安定な時代が続いていた。
自転車競技の場合、トラックでは世界のトップを争うタイムを出しているソビエトの不参加で興味が注がれていたが、ロードの場合は圧倒的にヨーロッパ西側諸国の実力が上であるため参加選手のハンデはそれほど影響していなかった。
3大会ロードの代表を選出しなかった日本アマチュア自転車競技連盟もすでに1981年に決定されていた次回開催地が韓国ソウルであったため、今回は男女各1名を送り込むことにしていた。
8月にアメリカ、ロスアンジェルス開催のため国内代表選考会は5月5〜7日の日程で開催された。選考大会は、第53回全日本アマチュア自転車競技選手権大会でトラックは前年国民体育大会の会場であった群馬県前橋競輪場で2日間、ロードは群馬サイクルスポーツセンターである。
当時の国内トップクラスが出場して国内チャンピオンのステータス獲得と五輪代表の座を目指して各種目でデッドヒートの熱戦が繰り広げられた。
さて、ロードレースは、初めて使用された6kmサーキットコース。群馬県北部、温泉地として全国的にも著名な「水上温泉」に隣接する新冶村に建設された自転車専用ロード競技場は、すでに10年程前に国内初めて作られた伊豆の日本サイクイルスポーツセンターに比べると登坂勾配は大きく落ちるが周長距離が1q長く、走行スピードも時速にして約5qは速い。しかし、アップダウン連続のコースで平均速度40qは厳しいコースであったが、国内最高の大会にふさわしい会場であった。
群馬サイクルスポーツセンターの開場は1982年(昭和57)である。国内における最初も自転車専用ロードコースとして誕生して多くの大会で活用されている伊豆の日本サイクルスポーツセンターに遅れること10年、群馬県の北部に位置する場所にサイクルスポーツ専用の施設として建設されたのである。建設に当たっては地元代議士の長谷川四郎(元農林大臣)が大きく貢献し、財団法人の設立で実現した関東では唯一の施設である。
実業団連盟は開場の翌年に東日本実業団自転車競技大会のロードコースで初開催。この大会から女子の部を新設した節目の大会であった。
エントリーしていた選手は、ロード170名。学連・高体連選手93名 実業団77名(企業所属44名、クラブ他33名)
ロードレースの国内トップクラスの選手を抱えている企業チームでは、シマノ10名,ブリヂストン9名、マエダ工業9名、スギノ4名、丸石3名がフルエントリーであり代表の切符は誰が獲得するか、遅い桜花も散り、新緑の季節に入ったばかりの上州の山々に囲まれた決戦の場は、早朝よりチームスタッフ、応援の人々で賑わっていた。
180qを平均時速36・71q/h、タイム4時間54分09秒で優勝したのは鈴木光広(ブリヂストン)である。1981年高校自転車の名門福島県の学法石川高校卒業で次代のメンバー育成にチーム再編成をしていたブリヂストン入り。早くも翌1982年の全日本実業団選手権3位、全日本アマチュア選手権4位と頭角を現しブリヂストンのエースの座を確保しつつある時期であった。
常に集団を引っ張り、これまで勝てなかった実業団の雄、高橋松吉以下学連のトップクラスの選手に堂々10分先行しての後半からの逃げ切りは圧巻であった。まさに新しいスターの誕生を思わせた勝利である。
レース終了後の選考会で、代表に選ばれた名前を聞いて唖然とした。集まっていた観衆の中からもざわめきが聞かれた。代表選考会でありながら、今回1名という厳しい枠のためか、過去の実績から高橋松吉(マエダ)の名が告げられた。
勿論、ここ数年の実績では彼の右に出る選手はいない。年間ランキング制度が完備しており、これも選考の参考にするということを事前に公知していれば、数字の説明で納得するのであったろうが・・・当然、所属の埼玉自転車連盟より猛烈な抗議が出され一時騒然となったが、決定は覆されず8年ぶりの五輪選考会は問題を残して終了した。
筆者としては自転車競技のすばらしさに触れこれがきっかけでこの競技を始めるきっかけになった思い出として残っている1952年=昭和27年(戦後最初に日本が参加した五輪の選考レース)の平塚におけるロードレースがよみがえっていた。
当時高校卒業した選手が国内トップクラスの選手とゴール勝負を僅差の勝利で代表の座を射止めたというスポーツ新聞の記事に感動されたのである。狭き代表の切符が名もない一介の高校を出たばかりの選手がゴールを僅かタイヤ差の勝利で獲得できるスポーツ、まさにこれぞ個人競技の最高であると思えたからである。時代は経過しているが、納得がいかない気持ちであったことがいまでも思い出される。
著者:南 昌宏
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